不定期連載エッセイ:


動画ストリーミング・サービスは便利だ。動画ストリーミング・サービスは私の通勤時間や就寝前の時間を奪うようになった。乗り換え途中で動画を止めても問題ないわけで、時間を小分けにしてドラマや映画をみることができる。無論、テレビで見ることもできるわけで、家族の時間がとれなくなる、ということはない。寧ろ私は個人でみたいものを個人的に観ているわけだから、心地よく家族の時間を過ごせる。
ストリーミング配信がこれだけ生活に浸透したのは、ひとえにコンテンツが面白いからである。要は、どれほどサービスがしっかりしていて、値段がお手頃でも、面白くなければ成り立たない。
そうしたわけで、試行錯誤しながらもストリーミング配信された映像作品そのものについて、触れようと思う。バラエティ番組の場合は、そう簡単にはいかないだろうから、きっとエッセイみたいなものになるだろう。

FBI(ヴァージニア州クァンティコ)で行動科学ユニットが編成される。メンバーはFBI捜査官のホールデン・フォード(ジョナサン・グロフ)とビル・テンチ(ホルト・マッキャラニー)の2人だった。そこに教授だったウェンディー・カー(アナ・トーヴ)が引き抜かれ、行動科学ユニットは少しずつ大きくなる。行動科学ユニットは、刑務所内にいる連続殺人犯と面会をしてプロファイリングを行い、体系を立てて、犯行までの徴候を割り出し、事件が起きるのを未然に防ぐことを目的とする。シーズン1では単独で身勝手な行動をしたフォードが、服役中のエド・ケンパーと病院内で対峙し(もちろん監視下におかれているが、ケンパーは監視いなくなる隙を待っている)、パニック症状に陥って終わった。

シーズン2は行動科学ユニットを統括する上司が入れ替わるところから始まる。この男性はフレンドリーに見えるが、実に政治的な人間で、現場に対しては過干渉だ。上司はテンチとトーヴに、フォードが単独行動にはしらないよう見張りを(そして方向修正するよう)指示する。上司は、フォードが身勝手で問題を引き起こしやすい人間でありながら、行動科学ユニットを成功へと導くキーパーソンであると考えている。FBI捜査官として逸脱した行動が、犯罪者の心理を曝け出すと考えているわけだ。
しかし、肝心のフォードは不在であった。ようやくフォードから連絡を受け取ったテンチは、フォードがパニック症候群で入院していることを知らされ、引き取りに行く。このことは、上司には言わない秘密となる。フォードは症状を抱えたまま退院となる。いつ症状が起きるかわからない。
目立った成果を迫られるユニットだが、フォードはアトランタに滞在中、ある集会に引きずり込まれる。それは、誘拐や殺人の被害にあった子供たちの母親の集会だった。母親たちは地元警察が動いてくれず、助けを必要としていた。フォードは、事件が同一犯による連続誘拐殺人事件であると直感する。犯人は自らBTK(縛って、拷問して、殺す、の頭文字をとったもの)と名乗り、警察を翻弄する。
殺人犯はうまれつきなのか、環境要因なのかという根本的テーマをシーズン1から引き継いでいる本作では、焦点がビル・テンチにあたっている。これまで研究対象であった殺人犯の人物像が、まだ幼い息子に徴候として表れている。
フォードは持病、テンチは家庭、トーヴはパートナー。それぞれが個人的な事情を抱えながら、成果をあげようとしている。プライベートと仕事という全く利害関係の相容れない環境が、お互いに害していくその様が緊張感とサスペンスを生みだしている。

 

 

シーズン2は、シーズン1にましてクライムシーンが少ない。シーズン1は発砲シーンが最初にあり、あとで死体が何体か出てくる。シーズン2は現場検証後のシーンのみが活写され、死体も出てこない。それでもシーズン2はシーズン1同様の緊張感を保てている。それは脚本が緻密だからというだけでなく、フィンチャーの描く映像が、登場人物の語る言葉とマッチングしないという不気味さからくるものだろう。この作品では何が現実なのか、疑わしい。

シーズン2にとって重要な人物はテンチだろう。テンチの場合、テンチを基点として「家庭」と「犯罪」が比例的な関係として対応しており、息子の徴候(夜尿症など)を通して、いつも見ている「犯罪」の世界が、鏡像的に「家庭」にうつり込む。その逆も言える。テンチが接待をしている際に「犯罪の徴候があるものをすべて取り締まる」というようなことを言われたとき、テンチはバスト・アップで映し出される。このとき背景はバーであるものの、そこにテンチの家が鏡像的に(いわば視聴者の心理作用によって)投影されている。本来接合するはずのない空間や時間や意味が、利害関係の一致しないまま同居することになる。こうした異次元のもの、例えば上司と部下、警察官とFBI、男と女(あるいは女と女)が画面上で重なり、めまぐるしく利害関係の不一致として表れる。シーズン2のテーマは犯罪だけではないだろう。登場人物たちが様々なコンテクストに飲み込まれてしまう、そのこと自体がテーマではないか。

こうした切り返し(カットバック)の方法は、シーズン2のエピソード1冒頭から、既に始まっている。女性が帰宅すると、物音がしている。女性は物音の正体が夫なのかと不安になりはじめる。女性はカタカタと揺れるドアノブを発見する。ドアに近づく様子、ドアノブに手を差し伸べるシーンは女性の後ろにカメラがある。しかし扉が開くシーンは、室内にフィックスでカメラの定点をとっているのだ。男性(おそらく夫と思わしき人物)は女性の仮面を被り、ドアノブと首を紐でつなぐことで興奮していたが、女性がドアを開けることで倒れ込む。女性(つまり妻)が逃げ出し、男性が「こわがらないで、これは…」と呼び止めようとする。女性がドアを開けるまでは、場面は「女性にとって日常のなかに異常が紛れ込んでいること」を意味する。しかし、カメラが室内に切り替わった途端、場面は「男性にとってプライベートに他者が介入したこと」を意味する。この切り替わりの瞬間、2つの出来事が重なり合って、男性のプライベートが「異常」となり(と見られ)、男性にとって家族が「他者」となる(と見える)。フィンチャーがマインドハンターで発揮するカットバックは、これを基本としている。

ラストはシーズン1にくらべ、尻切れトンボである。シーズン1はフォードの決心(行動)が招いた結果で終わった。シーズン2は恐らくテンチが筋の中心となるのだが、何かを大きく動かすほどの決意をしておらず、ひとりの人間として苦悩を抱えるなか、ただ成り行きの結果だけが視聴者にもたらされる。今回のシーズンでモデルにした事件(自らBTKと名乗る連続殺人犯による事件)は、現実の世界だとすぐ逮捕に至らなかった。しかし、映像の世界には関係があるまい。シーズン2にとって重要なのは、事件解決ではなく、テンチがいかに苦悩に対処するということではなかったか。テンチなりの、苦悩への対処は活写されていない。

ドラマは、シーズンごとに完結するべきか、何シーズンも通して見なければならない内容であるべきか、どちらが良い悪いとは言い切れない。なぜなら、そこにはビジネスモデルや監督のスタイルも関わってくるからだ。しかし、変わらない事実がある。マインドハンターのシーズン2は、丁寧に作られていながらも、ラストが弱い。

マインドハンター(監督:デヴィット・フィンチャー)
シーズン1~2(Netflix限定)

 

(大山 アラン)

 

関連資料:

2019年版 デジタルコンテンツ市場動向調査
https://www.yano.co.jp/market_reports/C60125600

2019 サブスクリプション(定額)サービスの実態と展望
https://www.yano.co.jp/market_reports/C60122500

2018 レジャー産業白書
https://www.yano.co.jp/market_reports/C60115100

2019 おひとりさま市場総覧
https://www.yano.co.jp/market_reports/C60123900