前回までのコラムで「お一人様ビジネス」の対象者属性と具体的な成功/失敗事例を考察してきた。お一人様ビジネスが時代にマッチしたものであることはもはや疑いの余地はないのであるが、それでは、「お一人様ビジネス」の先にあるものは何であるのだろうか。テーマの最後は提言でまとめたいと思う。

「お一人様ビジネス」にはいろいろな捉え方があるが、ここでは大きくふたつに区分する。ひとつは「お一人様でも便利」というサービス、もうひとつは「一人では寂しいアナタのココロのスキマをお埋めします」という、黒いせぇるすまんの言いそうなサービスのことである。

 

「お一人様」によいビジネスは「誰にも気兼ねなく、すべて自分の自由」

「お一人様でも便利」系は、ユーザーの利便性を高める積極的な、幸せなお一人様利用形態である。実際、お一人様歓迎を謳うサービスは、前回まででも採り上げてきた焼肉や旅行をはじめとして、「一人でも利用したい、楽しみたい」という利用者の積極性と、隙間ビジネスとしてサービスの効率化を図りたい企業側との思惑がマッチングした結果である。このケースでは、一見「お一人様」はありえないと思うようなものですら、「お一人様」が大いに活用し、楽しむことができるサービスが多数ある。

例えば、「一人ラブホ」「一人フォトウェディング」「一人花火」「一人テーマパーク」「一人バーベキュー」「一人ゴルフ」「一人プール」「一人キャッチボール」「一人スワンボート」等々。。どれも程度の差はあれど、「お一人様でも便利に楽しみたい」という属性が存在している。
「一人ラブホ」でいうと、ひと昔前ではラブホテルの一人宿泊は断られることが多かった。理由は「一人客は自殺するかもしれないから」ということである。今ではラブホテルの部屋や入口を改装して、一般客も宿泊しやすいようにしていたり、ビジネスマンが「ホテルに缶詰」の状態を、割安な「ご休憩料金」で利用している事例もある。
「一人フォトウェディング」も、「相手はいないけれどウェディングドレスがあこがれなの!」というフクザツな理由とは異なり、「結婚の予定はまだ先だけど、今からドレスを選びたい!」という夢いっぱいのものから、実際の事例として「ガンでもう長くない父のために、まだまだ先だけど、花嫁姿を見せてあげたい」という切実なものまである。
「一人テーマパーク」は、同行者の都合がつかなかったり、都のような県に引っ越して年間パスポートを購入し毎日パークインするようなヘビーユーザーが「シングルライダー」としてパーク内を徘徊するのである。これこそ「さびし~」と思うかもしれないが、当人曰く「誰にも気兼ねなく好きなアトラクションやショーを、好きなだけ(←これが重要らしい)回れる」「すべて自分の自由」ということで、そこには何ら後ろめたさなどない様子である。

 

バーベキューやゴルフ、プールやキャッチボール(機)、スワンボートも彼ら彼女らには同様で、「誰にも気兼ねなく、すべて自分の自由」を共通項に、サービスを堪能しているのである。


「お一人様」にはよくないビジネスが招くもの

前項とは逆の意味で「お一人様」にならざるを得なかったユーザーは、サービスに対価を支払うことで、その「ココロのスキマ」を埋めているといえる。本来二人以上で行うべき行為、しかも本音では二人(以上)で行いたい行為を、「お一人様ビジネス」で提供されるサービスで代替していった場合、どうなるであろうか。

直接サービス名を挙げるよりも、例えのほうがわかりやすいかもしれない。お菓子を食べたことのない人はまずいないと思うが、これを食事替わりに三食摂取し続けていたらどうなるか。ひとことで言って身体をこわす。かといってお菓子の存在が悪というわけではない。適度なお菓子の存在は、ときに社交アイテムとなり、生活を潤してくれる。何より美味しい。

「お一人様」にはよくないビジネスというのは、この「お菓子の摂取」をどう捉えるかということである。

話はいったん大きく飛んでから戻るのだが、1980年代頃から「核家族化」というキーワードが社会現象のひとつとして語られてきた。それ以前は二世代・三世代の家族で暮らしていることが普通であった。社会参加、社会共同体の最小単位としてその複数世代の家族のなかに暮らしていたものが、核家族化、さらには以前にも書いた単身者の増加にともない、家庭のなかで社会共同体を体験する機会が減少していくことになった。
それまでは、自己の所属する社会共同体に対して何を成し得るかという価値観のなかで、ひとは自己の存在を自覚していた。それが核家族や単身化によって、多くの人々が、どのように住み、何を着て、何を食べるかという消費行動によって自己のアイデンティティを確立するようになったのである。シンプルに言い換えれば「人のために何をしたか」から「自分のために何を買ったか」への変容である。

 

高度経済成長期に始まった「消費は美徳」の社会は、さらに言い換えれば、時代に「社会共同体の体験」ではなく「個の消費」を要求したのである。
社会共同体においての消費は参加者の合意のうえに行われるが、個の消費は、すべて個人の価値観のみで判断して行われる。この相反する要素のうち、時代に捨てられていったのは前者である。同時に、消費判断の責任も社会共同体から個に移っていくこととなった。

(この稿続く。次稿で最終回)