前回では「学び=間違った熟成をしないため」を項の結論としている。説明した通り、これは正解であるが、「ひとが生きる限り逃れられない故に」たったひとつの正解となり得るもの、と書いた。これは「ひとが生きる限り呼吸からは逃れられない」と同様の意味である。

本項で、学ぶことの本質をあぶり出し、本テーマを最終回とする。

 

1.教育サービス市場の現状はこうなっている(前々稿)

2.学ぶということへの「誤解」(前々稿)

3.学ぶことはなんのために?たったひとつの「正解」がこれ(前稿)

4.学ぶことの本質を間違えないためのものとは(本稿)

 

4.学ぶことの本質は「〇〇〇感覚」

学びについて、市場のサービスを享受するのではなく「そもそも学ぶとは何か」を論じるとなると、どうしても新しいサービスやバーチャルリアリティ等の手法などの、小手先のことを論じたくなる。こうなると話は拡散し、ついには宇宙ステーション教育などの謎の言葉も出てくるようになる。
ここでは「学び」の事業者的サービス展開ではなく、もっと前段階の、心理学的アプローチから「学び」を考察していく。

話はいったん飛ぶのだが、ロシア語で「учить(ウチーチ)」という単語がある。これは「教える」という意味の動詞である。この語尾にся(エス・ヤー、再帰動詞、動作が自分に返ってくる)を加えると、「учиться(ウチーッツァ)」、「学ぶ」という動詞になる。なぜ別単語を用いずに、このような再帰動詞を用いるのだろうか。つまり学ぶということは、自分自身に教えるということであり、自分を対象視して、客観的視点の手法や意思をもって自分に教えるということが本質であるのだ。そのことがひとつの単語からもみてとれる。
(余談であるが、勉強でも、ひとに教えると自身の理解が深まるという)

そしてこの「学ぶ」概念から外れて、何も考えずにただ単に学ぶのは、自分の好きなことやできることしか学ばない、本当に適切な内容や手法やレベルであるかもわからない、もっと言えば、食欲の趣くままに好きなものを食べているようなものなのである。

そして、学ぶということについて客観的な問題(トラブル的な意味のほか、現状をよしとせず向上する意)として論じてみる。これも話はさらにいったん飛ぶのだが、アドラー心理学では、「すべての問題は人間関係の問題」であると定義される。例えば子供にいい教育を与えたいというのは、他者比較という人間関係において、より優位に立ちたいという、これこそ人間関係の問題である。どんな服を着るかということも、人にどう見られるか、自分をどう見せたいかという人間関係の問題である。ここでは説明を省くが、何を食べるか、何を作るかなど、森羅万象の人間活動の目的はすべて、人間関係の問題提起とその解決が目的なのである。

学ぶということは、単なる知識の吸収のことではない。前項でも書いたが、学びの目的とは「間違った熟成を回避するため」である。そして、ここで並行してキーワードとして出てくるのが、本稿全体の結論となる「〇〇〇感覚」である。

例えば、自分の子供や家族が間違ったことをしたら、叱るであろう。これは「間違った熟成」を回避するためである。これが他の家の子供だったどうだろうか。電車の中で騒いでいる他人の子供や大人だったらどうだろうか。そして、自分の部署で間違った仕事内容を見つけたら、それを指摘するだろうが、他部署、ましてや他社のそれであれば、自分に直接の影響がなければ、まず余計なことは言わないだろう。
この意識の線引きはどこから生まれるか。相手のことを自分のこととして捉えられるかどうか、これが、答えとなる「〇〇〇感覚」である。一連の例え話の流れで理解してもらえることと思うが、〇〇〇には「共同体」の文字が入る。そう、学ぶことの本質は「共同体感覚」なのである。指摘する価値すら無い相手には、そもそもこんな感覚を持つことはないのだ。

あらゆる教育サービスや商品を展開する事業者は、ここまでの考察が前提になっているだろうか。そしてサービスの受益者も、何も考えずにただ学んでしまうと「間違った熟成」をしてしまう恐れがあるのだ。安易な選択のもとの学びとその関連サービスは、ただ好きなものを食べている、食べさせているということに気づかない場合もあるのだ。

現代社会では、残念ながら共同体感覚は希薄になっていると言わざるを得ない。自分さえよければいいという、マナー違反のトラブル系ニュース報道に代表される事例がいくらでもある。懐古的にならなくとも、ひと昔前は現代より共同体感覚が確かに強く存在していたことは事実である。それはなぜか。かつては、家族の枠を超えて、地域で、国家で、という考え方が強くあった。これは反発する人もいるかもしれないが、理由は前項で引用した(逆)教育勅語の存在である。改めて読んでもらえればわかることと思うが、本来の内容は戦争賛美などではなく、「親兄弟と仲良くし、祖先を敬い、社会に貢献し、そのなかで自身を高めていこう」という教えである。昔はこの教育勅語が身近に存在していた。それは好むと好まざるという個人の意思とは別次元の共同体感覚に基づく、「учиться(ウチーッツァ)=自分に教える=学ぶ」という、客観的視点の手法や意思をもって自分に教えるという、すべての本質となるところなのである。

学ぶことの本質は「共同体感覚」。間違った熟成を回避するために、共同体感覚を、自分に、誰に、どこまで持つか。そのうえで、何のために、何をどうやって学ぶか、学ばせるか。これが学びの本質である。(完)


(依藤 慎司)
 

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