前回に引き続き、「学ぶ」というその本質について考察していくことが本稿の目的である。前回、「学ぶというその意義は、実は純粋な意味において、学習者自身には出せないのである」と書いた。その理由として、学びとは何かを知る機会は、対外的・相対的な要因によって起こるからである。それでは、その「対外的・相対的な理由」とは何か。学ぶということに対しての「誤解」を解くことから、自ずとその答えが出てくるのである。
 

1.教育サービス市場の現状はこうなっている(前稿)
2.学ぶということへの「誤解」(前稿)
3.学ぶことはなんのために?たったひとつの「正解」がこれ(本稿)
4.学ぶことの本質を間違えないためのものとは(次稿)

 

3.学ぶことはなんのために?たったひとつの「正解」がこれ

学ぶということはどういうことか。わかりやすい意味のひとつとして、「知識の取得」がある。試験に出るから、技能を取得したいからというものだ。ここでひとつ読者に問いたい。

「その試験は何のために合格したいのか、その技能は何のために取得したいのか」

自身に当てはめて考えてみてほしい。問われれば次の段階の答えが出てくると思う。出てきたその答えに対して、また「それは何のためか」を問うてみてほしい。途中で嫌にならなければ、何回目かに、「とある答え」に自ずと行きつくか、聞けば納得をしてもらえることと思う。というより、学ぶということにおいて、ひとはこの「とある答え」=究極の目的から逃れられないのである。以下、順を追って説明していく。

ここで過去の時間軸から事象を引用する。


- 米百俵の精神 -
戊辰戦争(慶応4年/明治元年~明治2年(1868年~1869年))で敗れた長岡藩(現・新潟県長岡市)は、7万4000石から2万4000石に所領を減らされた。すると藩の収入の6割を失い財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する有様となった。この窮状を見かねた長岡藩の支藩である三根山藩から、百俵の米が贈られることとなった。長岡藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事(明治時代初期の府藩県三治制の時期に置かれた、地方官の長官に次ぐ官職。現在の副知事、幕藩体制における家老に相当)である小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用とすることを決定した。藩士たちはこの通達に反発して抗議したが、それに対し虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきって藩の再建のための人材育成を推進した。
この逸話は、元内閣総理大臣の小泉純一郎が、小泉内閣発足直後の国会の所信表明演説で引用したことで有名になり、2001年の流行語大賞にも選ばれている。

- 引用終わり -

(※掲載写真については最下部に説明を加えています)


時代は違えど、「学ぶ」ということは、このように目先の食糧よりも大切なものとして認識されてきたのである。それでは、米より大事な、教育や人材育成は何のためであったのだろうか。「米百俵の精神」の例でいうと、それは藩の再建のためである。もう少し踏み込んでいうと、藩という社会の社会活動において、ひとがよりよく生きるためである。

現代では、藩の教育から変貌して、義務教育がある。基本的人権が保障されている憲法下で「学ばない権利」ではなく、中学までの教育が義務化されている。義務教育がなぜあるか。それは、義務教育の段階で自我のもとに学びを選んだ場合、有用性や必要性を考慮することなく「好きなものしか学ばなくなるから」である。物心や分別のつかない低年齢層であればなおのことである。それを補うシステムとして、最低限これだけは身につけないと社会活動が送れないであろうという理由で、義務教育が存在しているのである。


ここまでの繰り返しでもう納得してもらえることと思うが、掛け算九九や四則計算、漢字の読み書きも、語学の取得も資格試験も、すべての目的は「よりよく生きる=社会活動=人間関係の問題の解決」である。その意義は、現在の義務教育を語るよりも、たとえ賛否両論あったとしても、日本の過去の事例を紐解くとわかりやすい。それが道徳教育である「教育勅語」である。ここではよりわかりやすくするために「逆教育勅語」を引用する。

逆教育勅語

一、親に孝養をつくしてはいけません。家庭内暴力をどんどんしましょう。

二、兄弟・姉妹は仲良くしてはいけません。兄弟姉妹は他人の始まりです。

三、夫婦は仲良くしてはいけません。じゃんじゃん浮気しましょう。

四、友だちを信じて付き合ってはいけません。人を見たら泥棒と思いましょう。

五、自分の言動を慎んではいけません。嘘でも何でも言った者勝ちです。

六、広く全ての人に愛の手をさしのべてはいけません。わが身が第一です。

七、職業を身につけてはいけません。いざとなれば生活保護があります。

八、知識を養い才能を伸ばしてはいけません。大事なのはゆとりです。

九、人格の向上につとめてはいけません。何をしても「個性」と言えば許されます。

十、社会のためになる仕事に励んではいけません。自分さえ良ければ良いのです。

十一、法律や規則を守り社会の秩序に従ってはいけません。自由気ままが一番です。

十二、勇気をもって国のため真心を尽くしてはいけません。国家は打倒するものです。

 

(引用元:憲政史研究者・倉山満の砦

義務教育の段階で道徳教育が欠落し「逆教育勅語」が実践されると、待っているのは北斗の拳の「ヒャッハー」の世界である。先人たちは、義務教育の段階からこれら(逆教育勅語ではなく教育勅語)の教えを実践してきたのである。誤解を恐れずに言うが、道徳教育を取得していなければ、知識だけを持ち、そのまま年だけを喰い、年齢や学歴・社歴だけの老獪な老〇が出来上がることになるのである。


究極のところ、学ぶということは、人間関係をよりよくするためであり、それはつまり「間違った熟成をしないため」である。これ以外の「学び」と類似するものはすべて「知る」か「習熟する」となる。逆説的な命題であるが、もしこの世に自分ひとりしか存在していなければ、冒頭に書いた「誤解」も、人間関係をよりよくするという概念すらも存在せず、ひとは「学ぶ」ということをしないだろう。実際にはそんな世界はあり得ない。それが故に例外なく、間違った熟成をしないことが必要になるのである。

特に日本においては、多くの、そして古来の習い事は、「学ぶ」という側面と表裏一体である。柔道、弓道、剣道、そして茶道や華道に至るまで、日本発祥の習い事には「道」という語が付く(明治維新以前は「術」という語があてがわれていた。例えば「柔術」等)。「道」という字は「首」と「しんにょう」から成り、これは頭をある方向に向けて歩くことを表している。つまり、あらゆる武道や華道・茶道なども、「術」という手段が昇華され、先人が残した人としての倫理や、これから進む人生の方向を切り開いてゆく道と考えられ、「術」が「道」になっていったのである。簡易に言い換えれば、やはり「人生をよりよく生きるための道」なのである。

もうおわかりだろう。「学び=間違った熟成をしないため」は、正解であるが、「ひとが生きる限り逃れられない故に」たったひとつの正解なのである。

この解は、逃れられない故に森羅万象の事象を網羅することになる。そして、すべての学びには共通する本質がある。それが次の最終項で説明する、「学ぶことの本質とは〇〇〇感覚」である。(次項で最終回)


(依藤 慎司)


※文中、長岡藩のエピソードの紹介箇所において掲載した写真は、フリー素材の「足利藩校」です。部長に「新潟の長岡に藩校写真撮りに出張行ってきていいですか?」と聞いたら「自腹で」と言われたので、しかたなく同じ藩校として流用しました。