壊れる程愛しても1/3も伝わらないコラムニストの横山です。本日は週刊少年ジャンプの明治剣劇物語の金字塔にして現在は月刊誌ジャンプSQで続編が連載中の「るろうに剣心」について語りたい!
同作は和月伸宏によって1994年から1999年まで週刊少年ジャンプで連載され、維新志士方の伝説の人斬りと恐れられた「緋村剣心」を主人公とする、明治維新から10年後の幕末の動乱を生き抜いた剣客や取り巻く人々を描いた作品だ。アニメ化のほか、2010年代以後は実写映画化や2.5次元ミュージカルなど様々な形でメディアミックスされている時代を超えた名作の1つである。
剣客同士が織りなす熱いバトルやつい真似をしたくなる必殺技などバトル漫画の要素はもちろん(読者は「牙突」や「二重の極み」を一度は必ず真似したはず!)、当時の少年漫画としては線が細く繊細なタッチで描かれる画風や、ともすれば「ジャンプの少女漫画」とも言われた人物描写や心理描写などを両立させた点が人気の要因となっている。
当時はちょうど連載の入れ替わりのタイミングもあり、バトル+人物描写の秀逸さの共通項もあってか、るろうに剣心の読者は幽☆遊☆白書の読者と重複する部分が多かったと筆者は記憶している。少年誌でありながら数多くの女性ファンを獲得し、今日における「歴女」という言葉を生んだ礎になったといっても過言ではないだろう。
そして明治維新から10年後を描くという「歴史もの」の一面が土台にある。舞台となる時代は幕末の動乱を終え、西南戦争という大規模な士族反乱はあったものの少し落ち着きを見せている時代であり、ある意味では大きな歴史イベントに乏しい時代であるが、それが故にその隙間を埋めるかのように幕末を生きた人物の「その後」を描けているのが魅力的だ。
加えて明治維新10年後という時代をただ借りているだけでなく、同年に起きた「紀尾井坂の変」による大久保利通暗殺を物語が大きく動き出すトリガーとして活用するなど、史実の出来事を創作に絡めるという歴史物語のルールを大いに踏襲している。維新志士、新選組、赤報隊、廃仏毀釈など、それぞれのキャラクターが幕末という「過去」を背負っており、それが明治の時代を生きる理由や原動力としても描かれている。学校の歴史の授業も、明治初期はるろうに剣心に重ねながら学んだ人も多いのではないだろうか。
さて、作品の紹介は筆者のつたない文章よりも実際に作品に触れて頂くことに譲るとして、今回語りたいのは、作中で描かれるこの「過去」と、そして「今」との関係性の部分だ。
結論から言うと、筆者はるろうに剣心という作品を「敗者復活」の物語だと思っている。
歴史には「敗者の美学」という言葉がある。司馬遼太郎の「燃えよ剣」に代表されるように、歴史の流れに抗いながらも必死でもがく姿の美しさであり、そして「敗北」によって物語が終幕するからこその寂寥感が人を惹きつける。
一方、るろうに剣心という作品は、数多くの「敗者の美学」を生み出した幕末~明治維新から10年という時を経ることで、「敗者の美学」からさらにその先を描き、後の世で花開く様を物語や巧みな人物描写から感じられるのだ。
作品の主人公「緋村剣心」は、幕末の維新志士方の剣士として数多くの暗殺に加わった過去を持つ。史実における幕末四大人斬りの1人である川上彦斎をモデルとしており、「人斬り抜刀斎」の異名の通り作中における位置づけも岡田以蔵、中村半次郎、田中新兵衛らと同じく明確に「人斬り」としての過去が描かれる。血生臭い幕末から平和な世の明治を生きる中で「多くの人を殺めた自分が平和な時代に生きていていいのか」という葛藤を常に抱え、その贖罪の答えを出すことも物語の根底にある。
剣心の仲間である相良左之助は、幼少の頃に赤報隊の準隊士として倒幕活動に身を投じたが、赤報隊が掲げる年貢半減が維新志士側にとって邪魔となり「ニセ官軍」の汚名を着せられ、敬愛した赤報隊隊長・相良総三の斬首を目の当たりにするという悲劇的な過去を持つ。当初は維新志士を目の敵にし、その象徴たる剣心と対峙するが、拳と剣を交える中で互いの葛藤を理解し合う。
史実の人物であり、作中では幕末に剣心と幾度となく死闘を重ねた新選組三番隊組長・斎藤一は、いわずもがな幕末の「敗者」である。しかし、明治の世でも警察官として維新志士の作った国家からの禄を食みながら、新選組の生き残りとして幕末と変わらぬ己の信念である「悪・即・斬」を貫いている。
このように、主要な登場人物には幕末という大きな「過去」があり、それらはいずれも当人にとって辛く苦く失ったものが大きい経験である。それらを抱えながら、明治という「今」を生き、「あの頃」に果たせなかった、決して歴史年表には載ることのない活躍が描かれている。
その中で特に「るろうに剣心に学ぶ敗者復活のススメ」というテーマで本稿を書こうと思ったきっかけが、作品終了から10年以上の時を経て、現在月刊誌のジャンプSQで連載中の「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚・北海道編-」に登場した阿部十郎という人物の登場と活躍である。
阿部十郎は史実の人物である。元新選組隊士であるが、その途中で伊東甲子太郎を筆頭とする御陵衛士の一員として新選組を離脱している。この御陵衛士は、佐幕集団である新選組の派生でありながら伊東の勤王倒幕思想を持つ集団であり、単なる分派ではなく新選組への敵対組織としての分裂であった。当然新選組からは危険視され、最終的には京都・油小路における伊東の暗殺、御陵衛士の粛清という結末を迎える。しかし、御陵衛士残党による近藤勇の襲撃により剣客としての命脈を絶ち、結果としてそれが新選組崩壊の序章となった。
このように阿部十郎は幕末、そして新選組に非常に因縁の深い人物である。後に北海道に移住し役人として明治を生きていたことから北海道が舞台の今作に出演している。北海道では、本作の敵組織である「劍客兵器」が富国強兵のための戦闘実験を名目に破壊、騒乱、暗殺行為を繰り返しており、政府高官ばかりを狙う暗殺者に対する囮役として当時役人であった阿部十郎が抜擢された(実際には進んで囮役となった)。
阿部十郎を囮役としてその暗殺者を迎え撃つのは、元新選組二番隊組長・永倉新八と三番隊組長の斎藤一という、言わずと知れた新選組の幹部組である。そしてこの2人に対し囮役を買って出たのは、元御陵衛士として新選組から味わった辛酸に対し、「新選組が負ける所を見たい」という理由であった。
しかし、この「新選組の敗北が見たい」という真意は、新選組が倒せなかった敵を自らが倒すことで新選組より御陵衛士が上であることを示し、それをもって新選組の敗北とし、油小路の復讐を果たすというものであった。
そのために幕末動乱以後、新選組砲術師範であった経験を活かし拳銃の扱いを磨き、至近距離での華麗なガンアクションを披露し、永倉・斎藤が苦戦した相手と渡りあうという、少年漫画的に最高にカッコいい意地の見せ方をしたのだ。
当初、幕末以来に斎藤一と再会した時には「ひょっとして今でも悪・即・斬とか言っている?」「一(はじめ)青年はまだまだ青春の真っ只中」という言葉を浴びせ、明治の世にも変わらず新選組時代の信念を貫く斎藤を、幕末の敗者として時代に取り残されたと見下すと同時に、新選組を軸として過去と今を浮彫りにする存在であった。
だが蓋を開けてみれば、幕末に残した復讐心やあの頃果たせなかった仇敵へのけじめを、単に2人の妨害や敵への協力などではなく、明治を生きる「今」のやり方で、あくまで自らの手による決着の付け方で遂げようとしているのはあまりに熱い。斎藤を「いまだ青春の真っ只中」と揶揄しながら、阿部十郎本人が最も青春の真っ只中にいるではないか。永倉・斎藤が苦戦する中で、突如「永倉、斎藤、囮役御苦労!」と、囮役はむしろ元新選組の2人だと言わんばかりに大ゴマで登場した場面は、実は裏で自らの思惑を巡らせていた大人のカッコよさと、少年漫画の主人公のストレートなカッコよさが見事に同居していた。
阿部十郎は司馬遼太郎の新選組短編小説集「新選組血風録」の1話「四斤山砲」の中にも、得意の砲術を巡って新参の怪しげな砲術使いから己の矜持を守る物語の主人公として登場するが、それにも相通ずるものを感じた。
るろうに剣心という作品は、過去の敗者が時代を経て再び花開くというカタルシスを描くのが本当に巧みだ。作者がコミックスの中で学生時代に剣道に打ち込むもなかなか強くなれなかった過去を語っていたが、そうした実体験なども人物描写に反映されているのではないかと推測する。
おりしも本稿執筆は北京オリンピックの真っ只中である。物事、特に勝負事には勝者と敗者が確実に存在する。しかし、敗者はそれだけで何ら評価を得られないのだろうか。敗れた者はそれで全てが終わりなのだろうか。否。時を超え形を変えて、敗者が再び輝く機会はいくらでもあるということを、筆者はるろうに剣心という作品から学んでいる。
(時は奏でて思いはあふれる)横山秀彰
関連資料:
2021 クールジャパンマーケット/オタク市場の徹底研究
https://www.yano.co.jp/market_reports/C63111100
関連リンク:
ジャンプSQ「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚・北海道編-」
https://jumpsq.shueisha.co.jp/rensai/rurounikenshin/
映画『るろうに剣心 最終章 The Final/The Beginning』公式サイト
https://wwws.warnerbros.co.jp/rurouni-kenshin2020/
アニメ「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-」公式サイト
https://www.kenshin-tv.com/